小川:ITによる企業のインフラ作りが一巡したとき、ITを使う次のテーマとしてマーケティングが注目されるようになりました。それは1990年代です。IT業界はCRMのベースとなる顧客データベース作りから入りましたが、当時はまだマーケターが入っていませんでした。結局、多くの企業で宝の持ち腐れになっていたわけですが、10年ほど前から、先駆的な企業が顧客データベースを使った本格的CRMに取り組むようになりました。
青木:マーケティングの専門家とITの専門家とがコラボすることで生まれてきた大きな変化とはなんでしょうか。
小川:それはまさにマーケティングとITの協業によるone to oneマーケティングの実現にほかなりません。私はある外資系自動車会社を担当したことがあります。そこは今、100万人ぐらいの顧客データベースを使ってCRMを行っていますが、常にその人たち全員に対して気合いを入れてアプローチしているわけではなく、日頃は一斉メール配信ぐらいです。しかしたとえば、車検まであと6カ月になった、漫然とホームページを見ていた人が普通の商品サイトよりかなり詳細なスペックページを何度も時間をかけて見るようになった、見積もり請求をしてきたというようになると、スイッチが1つ入ったとITが判断するわけです。そうすると、今度は自動的にITが高級感あるパンフレットやDMを送ってみたり、試乗会に誘うことになります。
100万人の中のまずは5万人、5万人の中でもさらに当該車種を「今、本当に買ってくれそうな人」1万人というようにITが特定していき、その1万人に対してはITだけでなく、人間営業マンと力を合わせて全精力で、まさにマンツーマンで営業をかけ契約獲得を目指します。人間マーケターのやることは、このマーケティングそのものの全体設計を描き、個々の打ち手を企画すること、ITが報告してきた途中成果を見て、当初の計画どおりに実行するか計画変更するかの判断をすることです。
青木:単に顧客データベースがあるだけではダメで、そこにマーケターのナレッジが、さらに言えば営業マンのナレッジも併せて入ることによって、それが可能になったということですね。
小川:営業側のオートメーション化(SFA:営業支援システム Sales Force Automation)もあります。たとえば、営業マンが、会社でパソコンを立ち上げると「今回の商品で、この何とかさんにアプローチしなさい。この何とかさんは属性としてはこんな人で、こんなことに興味を持っている人なので……」という自らがセールスすべき見込み顧客のリストと関連する情報が入ってきます。そしてセールスの状況が今どのレベルなのかも共有し、最終的には契約できたできなかったまでが共有されます。この営業側の環境とマーケティング側の環境の結びつきこそ、私が昔描いていた「入り口から出口まで一貫した」マーケティングプロセスであり、それが可能になったのです。すなわち広告やプロモーションで最初のコンタクトがあったお客様が、その後いろいろな施策による自社との何回かの対話の後、徐々に意識が変わっていき、最後は営業マンのアプローチを受け入れるか否かまでを、一人一人詳細にリアルタイムで把握できるようになりました。リアルタイムで把握できるということは、マーケターの判断で打ち手を臨機応変に変更もできるということです。これはマス・マーケティングでは不可能なことです。
マスと個の断層と回路
青木:先ほど、従来のマーケティングでは、いくら顧客のニーズや購買行動の違いを考えてセグメント化しても、実際にそのプランを実行しようとしたときにマス・メディアに頼らざるを得ないので、そこに違和感を感じるというお話がありました。しかし、ITの技術が発展し少なくともコミュニケーション・レベルでは打ち手の確認も個々人のベースでできるところまで進んでしまうと、そこにはまた新たな問題も生まれるような気がします。逆に、一人一人の顔が見えすぎてしまうというか、それをマーケットとしてどうくくったらいいのかといった問題も出てくるのではないでしょうか。
小川:マーケティングといってもブランディングとアクイジション(acquisition)があるとすると、ブランディングというのはみんなが同じパーセプション(perception)を抱くということですから、それはマス・マーケティングの領域で、やはりテレビが最強です。ただ、一人一人契約を獲得していくとなったときには、相手のことがわかって、相手と直接話ができたほうが効率と買ってくれる可能性は上がるので、アクイジションはどんどんone to oneマーケティングに移っていくと思います。
ただ、one to oneといってもプランニングするときにはある程度セグメンテーションもやります。企業としてリソースを投入して長い関係を築きたい個客とは誰なのか、セグメンテーションしてペルソナ化します。そのペルソナに対して、最適のコンテンツを最適の手法で最適のタイミングで打つことを計画します。後は、個客一人一人が、たくさんのペルソナのどのペルソナなのか特定できれば、打ち手が実行できます。セグメンテーションとそのセグメントに対して刺さる打ち手は何かを考える、というマーケターとしての基本動作はone to oneマーケティングも同じです。
青木:消費者のニーズや購買行動は個々に違いますから、どこかで市場をセグメント化しなければなりませんし、その重要性は変わらない。一方で、具体的な取り組みとかアプローチはどんどん個のレベルに落ちてきているし、成果の確認も個のレベルでできる。となると、両者の折り合いをどうつけていくのかというのが、マーケターにとって非常に重要な課題になるはずですね。
小川:相手がわかり、相手により打ち手を使い分けるという精度はITによって高まりますが、どういうお付き合いをしていくかは人間、つまり、マーケターが考えるしかありません。こういうタイプの顧客には、こんなコンテンツをこんな手法を使ってこんなタイミングで打つ、というプランニング自体は人間マーケターがやるのです。ITがやってくれるのはその実行と成果報告だけです。ITというのはしょせん道具ですから、逆にマーケターの力量が問われるということです。
青木:ITとマーケティングの断層をどう埋めるのか、共にコラボしながら生活者に対してどのような価値を提供していくかがポイントになりますね。テクノロジーが進んだとしても、それで何でも100%解決できるものではありません。かつて、マイケル・ポーターが、ある論文の中で「ITというのはイネーブラー(enabler)だ」と書いていましたが、確かにそうだと思います。ITが進化すれば自動的にすべてが解決されるということではなく、それまでやろうとしてもできなかったことが比較的容易にできるようなる。その手助けをするのがITだと。そうすると、むしろ、マーケターがそのマーケットを構成する消費者にどう向き合うかが、より重要になってくるはずです。
小川:まったくおっしゃるとおりです。ITは目的ではなく、道具です。IT業界の人がなぜ、電通イーマーケティングワンみたいなマーケティング会社に来たいのかというと、ITだけを続けることの限界を感じているからです。テクノロジーは日進月歩で変わりますが、テクノロジー自体が目的ではないので、一瞬最先端だと思っても、すぐ陳腐化してしまい、徒労感を抱く人も多いのでしょう。それよりは、一つ上のレイヤーの仕事をしたい、具体的にはITを使ってマーケティングをしたい、ITを使ってゲームを開発したい、といった具合にです。マーケターの夢や野心をかなえるべく、強力に後押ししてくれるのがITなのです。
逆に、マーケティング不在ですべて解決しようとする悪い例もあります。たとえば、多くのリコメンド・エンジンです。統計学とITだけで答えを出してしまおうとしているのです。統計学では協調フィルタリングというアルゴリズムがあって、購買行動やその人のネット上の行動から、いくつかのクラスターに分けて、この同一クラスターに入っている人は同じような商品を買うはずだと判断してしまいます。ITと統計学だけで答えを出そうとすると、行動データだけを追いますから、どうしても現状追認型の答えしか出てこないのです。結果として、サプライズのない、おもしろくも何ともないリコメンドばかりがなされてしまうことになります。やはり、マーケターの視点が顧客を行動だけでなく、その裏にある意識や価値観まで捉えて理解しないと、顧客に本当に喜ばれる提案はできないと思います。マーケティング×IT×統計学のコラボが必要なのです。